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戻ってきてよかった
コロンビア出身/2004年4月来日
筑波大学大学院 人文社会科学研究科国際日本研究専攻 博士課程 3年在学中
趣味:読書、ダンス、茶道 将来の夢:国際理解と日本・スペイン語圏との結びつきを強化すること
研究テーマ:Constructions of Foreign Otherness in Japanese Media (日本メディアでの「他者」の表象)
 
 

今年の3月、急遽コロンビアに行くことを決めた。3月にはボゴタでアジア研究ラテンアメリカ国際学会大会が開かれることになっていて、1月の段階では参加しないことにしていた。理由は、時間とお金がかかる旅であるうえに、家族がいるボゴタで開催されるにもかかわらず、ゆっくり自分の家族と過ごす時間もないほど慌ただしくなることが目に見えていたからだ。行きたいとは思っていて、数ヶ月考えていたけれど、結局いつも行かない方がいいという結論にたどりついていた。

しかし2月半ば、学会大会のことは気になったままで、「日本でこんなギリギリに航空券を確保するのは不可能だ」と思いつつも探してみることにした。行けるかどうかは私に決められない。“もし適当な値段のチケットが見つかれば行こう、生活への支障は最低限にしたいから、できれば金曜日か土曜日出発で”。無理を承知で方々探したら、魅力的すぎるチケットを発見した。唯一のマイナス点は自分の予定より1日・2日早い3月10日出発の飛行機だったということ。ちょっと考えたけど、結局“まぁ、いいか”と行く事にした。

ボゴタに着いて5時間後、時差からくる眠気と戦いながら、でも眠る事もできず、朝の5時にテレビをつけた。巨大な波が立ち並ぶ家々を飲み込む映像が映し出された。後ろの方で低い日本語が聞こえ、もうひとつ大きな声でスペイン語が聞こえ、私にとっては信じられないことをしゃべっていた。目は完全に覚めたけど、まだ何が起っているのか分からず、しかし画面にうつる家々の屋根の形状からこれが日本であることは間違いないと思った。数時間前には完璧に普通だった国が、このような状態になっているということに私は混乱した。何がどこで起ったのか完全には理解できないまま、心の中を友達や知り合いの顔が通り過ぎていった。不安と恐怖を感じた。突然決まった旅行のために私が日本を飛び立った直後に、どうしてこんなことが起ったのか理解できなかった。

数時間後、私の友達や知り合いは誰も直接被害を受けてないことが分かった。自分を落ち着かせ、自分の家族を落ち着かせ、私の状況を知ろうと1日中実家に電話をしてきていた友達や知人を落ち着かせた。私が電話に出るとみんなびっくりし、そして全員が日本に帰っちゃダメだと言った。みんな私が無事だったことを喜び、コロンビアに居残るものだと思っていた。

私は、メディアが作り出すコロンビアのイメージが事実とほど遠いことを、日本人の友達などと話した経験から知っている。だからニュースで流れる誇張されたパニックや危険なイメージを信じてはいなかった。しかし家の電話が鳴り止むことはなく、人に会う度に津波や地震、原子力発電所の話題になった。みんな日本人は秩序を保っていると、言っていた。日本人はこんな災害と向き合ってもとても静かで落ち着いている、とも言っていた。そして固い口調で疑うそぶりもなく、放射能があの国を滅ぼしてしまうだろう、食べる物も水もないし、もう日本で生きて行くことはできない、と言っていた。

数日後、学会大会が終わり、日本に帰る時がきた。出発の4日前、私の頭の中は日本に帰ろうとする私にコロンビアの友達が示す難色と日本にいる友達が伝えてくる日本の平静な様子との間で葛藤していた。コロンビアではあからさまに怒り、数ヶ月経つというのにいまだに「なんで日本に帰って行ったのか?」と怒り続けている人もいる。コロンビアにいる時には、私は出国しようとしているのに、国が用意した専用機で日本から帰国してくるコロンビア人達を見て、日本への行くのは延期した方が良いのだろうかと迷った。まだ迷いはあったけど、日本にいる友達の言葉を信じることにした。結果的にコロンビアを出た。

ボゴタ空港では日本に行く私は驚きの表情で見られた。ニューヨークの空港では東京行きの飛行機に乗る私にすごく幸運を祈られた。成田では、いつもより厳重に迎えられたように感じた。そのあとに出た街では、暗い場所が多くなっていて、人々の悲しみを感じた。いつもと違い、通りは混んでおらず、東京の喧噪はもうなかった。しかし、思っていた通り、数日後日本の大好きなものが見えてきた。通りでも電車でも、ラジオでも新聞でもテレビでも、元気な広告を見るようになったのだ。「日本、頑張ろう」が目立った。日本は再建に向けて動き始めていた。

その時に私も協力したい気持ちで、日本で日本での最後の年を迎えられることができて幸せだ。

 
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