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魔法の国、日本
ドイツ出身/初来日は2004年9月、今回は2008年10月来日
早稲田大学 文学部文学科 3年在学中
趣味:外国語学習、漢字学習、サッカー、旅行
将来の夢:国際貿易、国際交流や国際コミュニケーション等の発達に貢献すること
 
 

私が日本語と「出逢った」のは16 歳の時でした。出身高校に日本語クラスが放課後の部活のようなものとしてあったので参加してみました。他の生徒があまりいなく、少人数のグループで日本人の先生に教えてもらえる所でした。授業の内容と勉強の仕方が非常に自由であったため楽しかったです。そして先生の、日本人や日本文化についての雑談もとても面白かったです。これらの色々な細かい所が、私の日本語と日本への関心を惹き起こすものとなりました。しかし、私の興味を最も惹いたのは、ある日先生と一緒に読んだ、芥川の小説『蜘蛛の糸』でした。その芥川の、素朴ながら奥深い言葉遣いには感動せずにはいられませんでした。なぜ感動したかは当時の私にはあまり分かりませんでした。ただ、私には掴めない何かがその中に潜んでいたことは確かでした。

その後、私は三回来日し、結局日本の大学で文学を勉強することになりました。実は私が文学の道を選んだのも、芥川の小説が理由のひとつでした。そして文学の勉強こそが私の日本人についての理解をも大きく深めたのです。特に芥川の『魔術』と坂口安吾の『夜長姫と耳男』が私に初めて「言葉の空白」の意味を理解させてくれました。人間が話す言葉はとても複雑でたくさんの情報を伝えるからコミュニケーションには欠かせないが、人が考えたり感じたりすることはそれよりも遙かに奥の深いものです。私が『魔術』や『夜長姫と耳男』を読んで感じたのは、登場人物の台詞と内面との間にかなりのギャップがあることです。台詞は実はつまらないものも少なくなく、実際に小説の中心を構成するのは登場人物の内面の描写や内面的状態を暗示する観察である、という印象を受けました。

このような、言葉と内面との間のギャップは、日本人の建前と本音との間のギャップに似ていると感じました。欧米人は日本人よりも物事をストレートにいうとよくいわれています。私もその通りであると思います。つまり、言葉と内面との間のギャップが小さかったり、またはなかったりもします。内面的思考がそのまま言葉にならなくても、仕種や身体の姿勢など、話し相手の態度を知らせるヒントは多くあります。それに対して、たとえば、私が日本人を食事に誘うときには、そういった非言語的コミュニケーションがより少ないような気がします。しかも、言葉の内容からもヒントが得られないことが多いです。そこで大切な役割を果たすのは「言葉の空白」です。そのためこの「言葉の空白」も実は、非言語的なものではなく、言葉遣いの一種であると考えます。

今、簡単に「言葉の空白」といっても、すぐにはぴんと来ないかもしれません。たとえば、「黙認」というものがあります。黙認も意味をもつ空白の一つです。このような空白は日本語や日本文化において数多く存在するような気がします。俳句にもそれが現れていると思います。たとえば「古池や蛙飛びこむ水の音」。一繋がりの動きが三つの瞬間に切断されたものを、読者が頭の中でまたパズルのように組み合わせてその動作性を復元します。空白を意識することにこそ、俳句の大きな面白味があるのではないか、と私は考えます。

 しかし、日本語において「言葉の空白」が多く使われることから一体何が分かるのでしょうか。それはつまり、日本が「言葉の社会」である、ということです。日本語には多様な敬語体系もあり、話し手は常に自分と相手の立場を意識しなければなりません。私の在日欧米人の知人の中には日本人との人間関係がうまくいかないという人もいます。しかしその中には日本社会における「言葉」の大切さに油断する人も多いのではないか、と私は思います。そのためにこそ言語や文学の勉強も、日本文化についての理解を極めるためには不可欠なものであると、私は思います。

 
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