2000年の春、私は大分県の別府市にある国際大学に入学するために日本にやって来ました。都会の賑やかさがなく、人混みそのものもない別府では、包み込むような市民の温情と美しい環境の中、私は伸び伸びと3年間充実な学生生活を送ることができました。そしてこの町で、世界約74カ国から集まった留学生とともに学び、生活し、相互の習慣や文化の価値観を理解し合いながら、国際社会に必要な専門知識と実践力を身につけました。3年間の学生生活で、多様な学生と地域社会の相互交流事業を通じて,地域の人々との触れ合いや様々なユニークな日本文化とイベントを体験することができました。その中で一番印象に残ったのは、日本の成人式でした。
入学して2年後の新春に、大学を代表して三重町の成人式においてスピーチをする機会を頂きました。その前に、新聞やテレビでの報道で、はじめて日本の成人式の模様を見ましたが、市長の挨拶中にクラッカーを鳴らしたり、式の真っ最中にお酒を飲んだりなど大騒ぎしていた新成人の行動に大変驚かされました.。それまでに、日本は礼儀が正しい文化的な国であると思っていたのですが、その報道を見て、なぜ新成人がそのような騒動を起こしたか、そして日本の成人式は本当の役割と意味は何かという疑問が出てきました。
母国のマレーシアでは、日本の成人式と似たようなものはありません。国民は16歳からバイク、17歳から車の運転免許が取れて、21歳から選挙権が与えられますが、日本のように全国的に公的団体や民間による成人式を催す仕組みはありません。その代わりに、特定の誕生日である16歳、18歳、21歳が大切にされていて、家族や友達同士でパーティを開いて祝ったりします。特に21歳になった時に、その人たちは家族や友達から金製の鍵をもらう慣習を好んでいます。その鍵をもらうことによって大人の世界への錠を開けようという意味を持ち、要するにもう成人になったという事で、生活にある一部の束縛に自由を与えられるということを意味します。もちろん、その自由を与えられるとともに、その人たちは、これから何を果たさなければならないという自覚を持つようになり、自分自身の夢と目標を再考します。
他の国の成人式を知るために、同じ大学で勉強している、アジアから欧米まで様々な国からきた外国人の友達と話をしてみました。各国の伝統儀式を除いて、ほとんどの国には、日本のように成人年齢を達したことを全国一斉に成人式を祝う風習のないということが分かりました。成人式は、本当に日本独特の文化だと思いました。外国のケース、隣国の例を見ていますと、韓国では、五月の第三月曜日が成人の日となっていますが、休日でもなく、日本のように華やかな民族衣装を着て全国の新成人が大勢参加するイベントでもありません。また、台湾の友人から聞いた話では、台湾の場合、18歳という年齢が成人であると社会に認められています。18歳の台湾の人たちはほとんどまだ高校で勉強しています。成人の日のときに、1つの高校から二地価三人の学生が選ばれて、他の高校から選ばれた学生たちと一緒に県内の体区間やホールに集められて、祝辞や講演をさせて頂くという形で「成人式」が行われます。
一方日本では、地元の関係各所の方々が新成人のため、激励と祝福するイベント、講演会やパーティを開いたり、記念品を贈ったりして、新成人に二十歳の思い出をしっかり形に残してあげます。私は日本の成人式をうらやましく感じた上、日本の新成人は本当に幸せな国民だと思いました。式典が堅苦しいと思われるかもしれませんが、新成人に対する関心と苦心は明らかです。成人になったというのは、以下に自分が大人だという主張を行動に表現しなければならないというわけではなく、成人となったこの時から、身の回りのどんな小さなことからでも、人のためになることをすればよいと思います。学生であれ、社会人であれ、これから心身ともに大人として社会にデビューしてほしいと思います。
振り返ってみますと、三重町での成人式でスピーチした時に少し緊張しましたが、新成人の皆さんがおとなしく私の話を最後まで聞いてくれたことにとても感動しました。壇上から見た、希望とパワーに溢れている成人達の姿を一生忘れません。その成人式は私にとって、とても貴重な経験となりました。その後私は大学を卒業し上京しましたが、将来いつの日か三重町で出会った成人達から、成人式の役割とは何かそして成人になって色々な経験談を話してくれる日を期待しています。 |