昔においては、生活を共にすることは想像すらしなかった様々な動物が、今や我々人間と同じように服を着て、アクセサリーを飾って、町中やレストランなどの公共の場で人々の視線を奪っている光景を頻繁に目にしているような気がします。ペットといえばやはり「犬」ですよね。今日は、この「犬」にまつわる私の思い出を話したいと思います。
「いろはガルタ」をみなさんご存知ですか。「いろはガルタ」は別名「犬棒ガルタ」とも言われるそうですが、昔から親しまれている子どもの遊びの一番はじめに犬が登場するように、日本の人々にとって、犬というのは非常に身近な動物だと思います。この「犬も歩けば棒にあたる」ということわざ以外にも、「犬が西向きゃ尾は東」とか、「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とか、犬が出てくることわざや慣用表現が多いのも、犬が日本人にとって、非常に身近な存在で、親しみをもって接してきたことを物語っていると思います。
では、中国ではどうでしょうか。中国でも今やペットとして犬を飼う人は増えてはいるのですが、中国の言葉の中では、犬はあまり良い意味には使われません。例えば、喧嘩をしていて人を罵る時などに「犬」という言葉が使われます。
でも、私自身、実は、人から「犬みたい」と言われたことがあるのです。私が日本語を学び始めたばかりの時のことです。その頃の私は、まだ文法もあまり習っていませんでしたし、日本語の単語もあまり知らないという状態でした。けれども、少し無理をしてある日本人の先生のクラスに登録しました。なので、とにかく先生のお話の中から、1つでも2つでも自分の聞き取れる言葉を拾い出そうと思って、先生の口元をじっと見つめて先生のお話を聞いていました。そんな私の必死な姿をご覧になった先生が、ある日、私に向かって、「○○さん、うちの犬みたい」とおっしゃいました。私以外のクラスメイトは、みんな笑っていました。人を犬にたとえるなんて、中国ではちょっと考えられないからです。でも、私は、先生が何とおっしゃったのか聞き取れなかったので、「先生、すみませんが、もう一度言っていただけませんか」と言いました。教室中は大爆笑でした。先生は、「ごめんね。もう言わない」と笑って、それきり私のことは何もおっしゃいませんでした。授業が終わってから、友だちに説明をしてもらい、ようやく先生のおっしゃったことと、クラスメイトが皆笑ったことの意味が理解できました。でも、私は先生に対して、先生の言葉に対して、全然腹が立ちませんでした。
実は、その日本人の先生は、その頃中国に一人で暮らしていらっしゃいました。家族も無く、先生の唯一の心の友は、飼っていらっしゃった犬だけでした。先生がその当時、中国の犬のイメージをご存知だったのかどうかは分かりません。しかし、その時の私は、先生の言葉に少しも嫌な気持ちがしませんでした。むしろ、先生がご自身の大切なペットと自分自身を重ね合わせてくださったことに、嬉しさ、誇らしさを感じるくらいでした。先生のペットの犬も、先生が話し掛ける言葉を、じっと先生を見つめながら聞いていたのでしょう。そんなことを想像したりもしました。
国が違えば、文化も生活習慣も違います。同じ言葉でも、国によってイメージが違います。人と人とが国を越えて理解し合うためには、ただ文字や声に表れた言葉だけでは十分ではありません。言葉の奥底にあるのは、やはり気持ち、心なのです。心が通じ合っていれば、言葉も通じ合えるようになる、というよりも、心が通じ合っていないのに、言葉の意味だけが分かっても、本当の意味での会話は成り立たないと私は思います。
日本には「犬に論語」という言葉もあると聞いています。言葉の分からない犬に中国の論語を読み聞かせても犬は理解できないということです。かつて日本語のクラスで、先生のお話は私にとって「犬に論語」みたいなものだったかもしれません。犬は確かに人の言葉は分からないですが、犬にだって飼い主の気持ちは伝わります。人間である私には、先生の言葉は正確に分かりませんでしたが、温かい気持ちはよ〜く理解できました。お互いを理解し合うためには、心を通わせることがなによりも大切だということを忘れずに、これからもたくさんの人々と交流の輪を広げていきたいと願っています。
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