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奨学生エッセイ
藤野先生と魯迅の物語から日中友好へ
 
 
 
中国出身。2002年来日。
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程2年在学中。
研究テーマは、地震時鋼柱に作用するPΔモーメントの簡易予測。
趣味は、旅行、スポーツ。10年間、プロ体操選手として活動。
将来の夢は、建築構造分野の研究者になること。
 
 

今年3月に大学時代の恩師柳川先生に誘われ、中国の大文豪・思想家・革命家である魯迅の恩師藤野厳九郎先生の故郷である福井県坂井郡本荘村を訪れ、藤野先生のお墓参りと故居を拝見してきました。柳川先生は建築家として活動しながら福井大学の非常勤講師をされている方で,大学時代は建築設計演習の中で北陸地方にふさわしい建築のあり方を詳しく指導して頂きました。先生は留学生にも非常に親しく接してくださり、文化交流についてもいろいろとお話くださりました。その柳川先生の先代は魯迅の恩師である藤野先生と深い関係があったため、柳川先生は藤野先生と魯迅の物語を非常に詳しく知っておられる方でした。

中国の文学家魯迅は、青年時代に留学生として仙台医専(現在、仙台大学医学部)で医学を学んでいました。そこで、恩師藤野先生と出合い、交流を深めて行きました。魯迅の作品「藤野先生」は中国の高等学校の教科書に載っており、多くの人に愛読されています。そして、日中友好の証として語り継がれています。藤野先生は仙台医専を退職後故郷に戻り、柳川家の一角を借りて診察所を開設していました。柳川先生のお話によりますと、その頃、藤野先生は村医者として腕をふるっていらっしゃったとのことで、柳川先生のお母様は水を汲んであげたり、話し相手をなさったり、時には看護婦的なお手伝もなされたそうです。その中で、魯迅との思い出話をお聞きしたそうです。そのため、柳川家は日中交流には非常に熱心であり、私のような留学生にとって大変親しい存在です。

今回、柳川家の皆さんと一緒に藤野先生の故居を見学し、お墓に花を添え、目を閉じ、両手を胸に合わせて藤野先生の墓参りをさせていただきました。7年前、来日したばかりの私は仙台を訪れ、魯迅の記念碑の前で記念撮影をしました。当時、偉大な先生と同じ留学経験を持つようになったことに誇りを感じ、心の中から留学生活に対する期待が湧いていました。魯迅の恩師藤野先生のお墓の前で手を合わせながら、私は7年間の留学生活を振り返りました。初めて作文した日本語は真赤に添削さ、挫けて泣いていた私に対して、優しく励んでくれた日本語学校の先生の言葉。大学時代、日本古民家の設計演習を担当した福井先生の厳しい言葉が蘇ってきました。大学時代の設計は、毎日深夜まで図面を直すことが続き、心から不満を爆発させ、留学生には日本の古民家なんかに無理だと諦めかけていました。しかし、最後までやり抜き、達成の喜びを味わったとき、先生の厳しい言葉があってこそ、今の喜びがあると思いました。厳しい指導を頂いた当時の設計図は今でも大切に保管しており、貴重な勉強資料としてだけでなく、図面を見るたび、前進する勇気を与えてくれます。京都大学では構造の分野に進学し,吹田先生のもとで多くのご指導を頂いています。学問的な指導のみならず、日本語の正しい使い方まで懇切丁寧に指導をしてもらっています。

日本での留学生活を振り返ると、多くの先生方から指導を頂いてきました。また、先輩、友達にもいろいろな場面で支えてもらいました。このような熱い指導と応援があったからこそ、自分が進みたい道を歩めているのだと思います。私を支えてくださっている方々が、私にとっての「藤野先生」ではないかと思います。

私のような留学生は数え切れないほど多くいます。一世紀前の藤野先生と魯迅の物語は語り継がれ、100年経っても物語は続いています。そのような物語があったからこそ日中の交流がどんどん進み、両国民の友好関係が築かれ、絆も深くなっていると思います。私は先生方の教えをしっかり受け継ぎ、藤野先生と魯迅の物語を永遠に語り継いで、日中の友好と技術交流などに貢献したいと思います。

 
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