茶道と聞いて、みなさんは何を思うでしょうか。和室、抹茶、着物と、日本文化の象徴と言えるべきものをイメージすると同時に、厳格で細かな作法と近寄り難さを感じられる方も多いのではないでしょうか。今回はそんな「日本のお茶」との出会いについて書いてみたいと思います。
私が初めてお茶会に参加したのは7 歳の頃でした。家族の友人だった日本の方に誘われ、茨城県のとある日本庭園の茶室で和菓子と目の前で点( た) てられたお茶をいただいたのでした。外国人かつ子供である私に配慮をしてくださったのでしょうか。苦さはあるものの、決してまずいと感じることはなく、甘い和菓子の後でいただくその一服は心地よいさっぱり感を与えてくれました。帰るときの、足がまるで重い枕に変身したかのようなひどいしびれは子供心に面白い感覚で、日本の大人はなんとも不思議な遊戯をするのだというのが感想でした。一緒にいた祖父が、お茶をシャカシャカ点てるときに使う茶筅が髭剃り用の泡を立てるブラシに似ていることが気になって全く楽しめなかったという感想を漏らしていたのも印象的で、そのお陰(?)か、お茶は髭剃り用のブラシで点てるものだとずっと思い込んでいました。茶道をやってらっしゃるみなさん、ごめんなさい(笑)。
それから日本に留学し、年配の知人に茶道クラブに遊びに来ないかと誘われたことがきっかけでお茶の道に入りました。ゲームや漫画など若い世代の文化ばかりに惹かれ、伝統的な日本文化にはなかなか興味を持てなかった私。茶道クラブへの参加も「何でも体験」というポリシーに過ぎませんでした。ところが、和菓子の美味しいこと。お茶の美味しいこと。しかも、2 回目の参加ではお点前( てまえ) を教えてくださると言うではありませんか! ややこしかった作法や点前の手順は「洗練された日常生活に過ぎないよ」と先生に教わって以来、とても当たり前のことに思えてきました。お稽古を重ね、本格的なお茶会や初釜で着物を着てお点前さんとして参加させていただいたときの感動は今でも忘れられません。ウクライナ語でお茶会は「ティー・セレモニー」いわば「お茶の儀式」と呼ばれます。しかし、今ではお茶は儀式ではない、友人同士で「思いやり」という手間隙をかけ、心を通わせながらその時にしかない名残の瞬間「一期一会」を作り上げていくものだと思うようになりました。
そんな気づきを得てしばらくのことです。臨床心理学を専門的に学ぶために大学院に進学した私は、素敵な仲間に巡り合えました。そして、その中には流派は違えども茶道にはまっている人がいました。そんな彼女にある日、私はとんでもないことを打ち明けました。薄茶を点てるのと同様の点前で抹茶ラテを点てるのが夢だと。すると、彼女も同じことをずっと考えていたのだとか。結果、コースの同期を数人巻き込んで「お抹茶ラテ会」を友人宅で開くことになりました。和菓子はラテに合うように、茶碗もモダンなデザインを選びました。お点前では泡々たっぷりに点てたお抹茶にこれもまた泡々のミルクをそっと注ぎ、仕上げに桜の花びらを2 枚ほど浮かばせました。集まったメンバーで道具や抹茶ラテの写真を撮ったり、和菓子や最近の学校の話で盛り上がったり、帰り際に感じる名残惜しさも、細かい点を除けば100 年前とも大して変わらないじゃないのかと思いました。きっと昔もこうしてそのときの瞬間を大事に、良い思い出にしようとみなで思いやりの心を一つに語り合いながらお茶を味わっていたのでしょう。
ちなみに、その後茶道の先生に「お抹茶ラテ会」という邪道にそれたことをしたと報告したところ、「思いやりの心こそがお茶の心。楽しい時間をみなで過ごせたのなら、邪道でなく茶道だよ」とおっしゃってくれました(笑)。修士課程を修了し、そのときの仲間とはなかなか会えなくなりましたが、いつか再びお茶会を開けることを楽しみにしています。久しぶりに会うみなの心はどんな味わいを足してくれるのでしょうか。 |