医学生であれば誰しもが経験しなければならない最初の関門、三ヶ月間の解剖学実習は、驚きの連続だった。人間の体の構造には圧倒されるものがあった。血管や神経がそれぞれ適材適所に存在し、合理的に機能し、そして一つの生命を創り上げる。人体の構造、こんなにも精巧で神秘的で興味深いのかと驚いたのと同時に、今まで" 生きる" ということに対して漠然とした考えしか持っていなかった自分に「生命とはこういうものだ」ともう生きてはいないご遺体から語りかけられた錯覚を覚えたのはまだ記憶に新しい。
週に三回の解剖学実習は、正直作業が大変で苦痛と感じる時もあった。例えば足背の筋と血管や神経の解剖では何が何だか同定するのに苦労したし、耳小骨の剖出ではどこからどのようにどの程度ピンセットを用いれば上手くいくのか全くわからなかった。他の班がその日の課題を全部終えて帰ってしまい、いつの間にか私たちの班だけがあの広い実習室に残されてご遺体と対面していることに気づいたこともあった。
解剖学実習が始まってから、自分の周りのすべての生命体が解剖台上の被剖検体として見えてしまう奇異な現象も同時に始まった。散歩している可愛い犬に対しても、焼肉屋で頼んだお肉を前にしても、筋肉や血管、神経に注目している自分に気づく時は、医学生としてはいいかもしれないが流石に人間として自分が嫌になってしまうこともあった。
講義形式の授業のほうが楽だし、こんなに時間をかけて実習するより教科書から学べばいいやーなんて思ったこともあった。でもそんな考えが良いわけない。三次元で人体を捉えることの重要性や生命の神秘を知る上で、やはり実習は不可欠なものである。
それに、何より大事なのは医学生のために大切な体を献体してくださった方の遺志である。解剖学実習という貴重な体験ができたのも、十分な献体が用意され、医学教育を考えてくださる方々が存在してくれているおかげであることはいうまでもない。我々医学生は真摯な態度でこれからも医学を学び、そして生命に畏敬の念を抱えなければいけないと感じた。そうでなければ、医療の発展を願って献体してくださった方々に申し訳ないし、それは医師になるためには忘れてはならないことだと切に思った。解剖学実習に必要だったものはピンセットやメスなどの実習道具だけではない。将来自分が医師になるという、覚悟があの実習には求められていたような気がした。
三ヶ月間の長くて短かった解剖学実習も終わり、最後にご遺体を綺麗に棺桶に納めた。白い花を周りに入れようとした時、ご遺体は最後に私に語りかけてくださった。私のまだ下手なメスの使い方にも、慣れないピンセットの持ち方にも黙々とお身体を貸してくださったあの方の声が自分にははっきりと伝わってきたので…私は今日も机に、また患者さんに向かって頑張っているのかもしれない。 |