南国生まれ南国育ちの者の多くはきっと「四季」をとても縁の遠いものと感じるのでしょう。故郷マレーシアは熱帯である以上、温帯の国まではるばる足を運ばない限り、「季節」を強いて挙げると雷雨が降り注ぐ雨季か陽の光が降り注ぐ乾季かほどの認識で、新鮮な果物やお魚などの自然の恵みのほとんども年がら年中堪能できます。季節のなさからしては常夏と呼ばれるのは決して過言ではありません。
この世の常を感じる南国とはまるで真逆にあるのは日本の四季なのでしょう。春夏秋冬、寒暖の天候の変動、旬に沿って採れる青果物、一変する景色など一季節一季節それぞれはっきりと区切りがあることが肌身をもって感じられます。様々な季節の中で人が暮らしていると考えると、常夏の中で育って成人した自分から見るととても不思議に感
じなくてはいられません。
四季の中にいる以上、人は四季に沿って暮らさなければなりません。日本は特に、その四季との縁は文化に織り込まれるといえるでしょう。春に花見と新生活、夏にお祭りやお盆、秋には紅葉や芸術、冬には年越しとお正月、季節ごとに象徴となる風習や行事が行われて、バリエーションが豊富でありながら時には目まぐるしくも感じてしまいます。風習と行事だけではなく、気づかないうちにも四季は多くの日本人の習慣にも反映されます。季節ごとに変わる時候の挨拶、季節の変わり目に行う衣替え、お中元やお歳暮のような慣わしなどは日常生活においては欠かせない物事ばかりです。
もちろん、こうして目に見えるところにとどまらず日本の思想と美学、和の文芸と伝統文化などにも四季の概念が色濃く表れています。「もののあはれ」からは日本独特の感慨や哀愁の表現の有様がわかります。移ろう四季の中の自然の美や別れと出会いといった人間の喜びや悲しみに対して、物事の儚さや切なさを感じて胸に浮かぶ深い感傷や
心情で少し理解できるようになりました。こうしてみればもののあはれは風景や音楽、詩や絵画など、さまざまな美的な要素だけから捉えることなく、「一期一会」など日本人の人間関係の構造からも捉えられます。
その傍ら、「侘寂(わびさび)」も日本の美意識や哲学に深く根付いた概念であり、物事のささやかな美しさやさびしさを愛でる心情を表現します。もののあはれを四季に浸る「今」の大切さとすれば、侘寂はその四季の儚さや止まることなく流れ行く時を憂う「過去」の大切さになるでしょう。自然や季節の移ろい、古びたものや手仕事の痕跡に対して特に顕著を置き、侘寂は日本の哲学の一角である無常観とも関連します。こうして四季などの物事の一時の美しさや喜びに心を寄せることで、自らの存在や瞬間を大切にする姿勢を育む要素から簡素ながらも繊細で趣深い美しさがあります。儚い故に美しく、その都度十分に堪能しなければ惜しむことになるでしょう。
こうして南国の「常」と日本の「無常」を並べれば、一目で見ると矛盾して相容れないとでも思われるでしょう。しかし、人間は複雑でとても都合良く行動して、両方の良さを摘みとり、合わないところを抜き去ることができるとても器用な生き物です。ところが、掛け合わせることができる前に自分でその「両方」を経験して思う存分味わうことが大切であり、一番難関なところでもあります。自分がたまたまその機会に恵まれたことを忘れずにいて、これから来る季節を
一つ一つ噛み締めて謹んでいかなくてはなりません。その気持ちを胸に、締めに「常」と「無常」を綴った「小倉百人一首」よりの一首:
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける
2022年4月、箱根彫刻の森美術館の桜
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