私の故郷は、中国・内モンゴル自治区の南部に位置する「正藍旗(せいらんき)」という小さな地域です。緑の草原と果てしない空、羊の群れ、風の音??それが私の原風景です。しかしこの場所は、単なる自然豊かな地方ではありません。かつてここには、元朝の都「元上都(げんじょうと)」が置かれていました。13 世紀、フビライ・ハーンが築いたこの都は、モンゴルの遊牧文化と中華文明、さらにはイスラムやヨーロッパ世界とも接続した、多文化が交差する場所でした。元上都は「ザナドゥ(Xanadu)」としてマルコ・ポーロの記録に残され、のちに詩や音楽でも描かれてきた幻想的な都??その実在の地が、私の故郷・正藍旗にあります。今では石垣の一部や遺構しか残っていませんが、風が吹き抜ける草原に立つと、確かにそこにあった文
明の鼓動を感じることができます。
私はそんな土地で生まれ育ち、自然と歴史が溶け合う風景の中で暮らしてきました。だからこそ、「人と自然の関
係とは何か」「風景は私たちに何を語るのか」といった問いを、幼い頃から自然と考えるようになりました。そして、
その問いを学問として深めるため、日本へ留学することを決めました。
日本の大学院では、都市における自然空間、特に「都市の荒野」とも呼べる未整備の緑地について研究しています。たとえば空き地や草の生い茂る公園の隅のような場所です。日本ではしばしば「管理されていない」とネガティブに見られがちなこれらの空間が、人によっては「落ち着く」「自然らしい」「懐かしい」と受け止められる??その違いに興味を持っています。
実は私自身も、東京で思いがけずこうした空間に出会い、深い感情を覚えたことがあります。世田谷のとある住宅街にある原っぱ。整えられていない草が風に揺れ、小さな虫が飛び交うその場所に立ったとき、私は正藍旗の草原を思い出しました。そこには、どこか「都市らしくない」静けさと広がりがありました。
私の故郷では、草原は「管理するもの」ではなく「共に生きるもの」です。風景はつくるものではなく、受け入れるもの。そうした感覚は、日本に来て初めて「異なる」と気づきました。京都の枯山水庭園に見られるように、日本で
は自然を抽象化・象徴化し、整えることによって美を表現します。それはそれで素晴らしく、私も深く魅了されていま
す。しかし同時に、整っていない自然、偶然に生まれた風景にも、別の価値があるのではないか??そう考えるよ
うになりました。
昨年、研究室の仲間たちと四国を旅した際、農村の風景や人々の暮らしの中に、正藍旗と通じる空気を感じました。棚田や石垣、小さな神社。どこか懐かしく、静かな時間が流れていました。「美しい風景」とは、単に整ってい
るということではなく、そこに人々の記憶や時間が重なっていることだと、私はその旅で再確認しました。
将来、私は正藍旗のような「歴史と自然が共存する風景」を世界に伝える仕事がしたいと考えています。元上都の草原に立ち、かつて世界とつながっていたこの土地から、もう一度新しいつながりをつくりたい。研究を通じて、人と自然のよりよい関係を築く方法を探り続けたいと思います。

 元上都
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