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奨学生エッセイ
 
 
 
普通を生きること
韓国出身/ 2014年4月来日
慶応大学大学院 法学研究科 博士3年
趣味:映画鑑賞
将来の夢:研究者
研究テーマ:社会内処遇の実施機関として更生保護施設の在り方に関する考察―日韓の更生保護制度を比較してー
 
 

こんなはずではなかった、こんな毎日を予定していたわけではない。時々、このような思いが頭を過って、一瞬で底を知れない不安に押し潰されそうな感覚を覚えるが、また、何事もなかったように平常心に戻る。しかし、普通の生活を恋しく思う気持ちは1秒たりとも消えることなく、ずっと私を苦しめるのである。

友達とご飯に行って他愛もない話を交わす、図書館で(どうしても眠気に勝てない時)いつもは見ていないジャンルの書庫を回る、駅前のカフェでコーヒーの香りに包まれ文庫本を読む、週末にはちょっと頑張って1時間かけて電車に乗りいつもと違う景色を堪能する。こんな普通の、ごく普通の生活に戻りたい。でも、今はその普通のことができないから苦痛に思う。さらに、その普通の日常を二度と取り戻せないかもしれないと思うだけで、憂鬱な気分になる。

それで、2020年の2月からの私は、元気ではあるけど、多少、無気力な日々を過ごしていたわけである。ところが、ある日、私は、ある映画と出会い、今日を生きる術に関するヒントを得ることになる。

その作品の主人公は特殊な不治の病を持っており、それ故、他の人とは異なる生活を余儀なくされてきた。それでも主人公は、自分なりのルールを作って、自分なりの楽しみを持って、仕事も恋もして、たまに寂しくはなるけど、ちゃんと自分を生きていた。そのある日、実は、他の人と同じ生活ができるように治療ができるかもしれないと告知されるが、そこで主人公は治療という選択肢を捨て、文句ばっかり言っていた今までの自分の生活を貫くことになる。

この主人公の選択が、最も映画らしく、映画の流れとしては十分納得できることは、言うまでもない。ただ、私の悪い癖でもあるが、この設定を現実に置き換えてみて、治療を受けて他の人のように普通に暮らす方が絶対幸せであるはずだと、主人公の選択を責めかけそうになった。しかし、その時、私は見てしまった。映画のエンディングで映るとても平穏で幸せそうな主人公の顔を。そんな主人公を責める理由なんて、もう私には一つもなかった。そして、私はふっとあることに気づかされた。

私が主人公に生きて欲しかった普通とはなんだろう。普通とはそもそも存在するものなのか。普通は誰が決めたものなのか。もとより誰かが決めるものなのだろうか。

思えば、今自分が取り戻したいと強く望んでいる普通とはただの幻覚にすぎないかもしれない。今までの自分の生活は、普通と言えたものでもなかったし、また、それが普通でないから辛いと思ったこともない。周りの人が就職して仕事をしたり結婚して家庭を作ったりしてそれぞれの人生を一歩一歩歩む中、私だけが遅くして留学を決心し、家族や友達を離れ日本に来て、犯罪者を再び社会の一員として抱擁するための取組みという先行研究も少ない研究をするわけで、最初こそ、自分の行く道が他の人とは違うかもしれないという不安はあったけれど、いつの間にかこれが自分の中では普通となり、今日に至るまでこの普通を生きてきたのである。

そう考えると、普通とは、他でもなく自分が決めるものであり、だからこそ、一定したものではなく色々な形を装い存在するものだと言えよう。そして、このように、普通は消えるものではなく形を変えるだけのものであるとしたら、今の状況というのは、普通を失くしたわけではなく、今までとは違う普通が存在するだけの話になり、もう普通の不在を嘆くことはやめて、今こそ、この新しい普通との付き合いを楽しむ番だと思う。もちろん、今までの普通に対する懐かしさ、愛おしさの感情はこの先ずっと続くかもしれない。しかし、今の状況が異常ではなく新しい普通だと考えるだけで、今日明日がちょっとだけ明るく見える気がして、私としては、この結論を心の拠り所にして、普通を生きて行きたいと思うところである。

 
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