私が日本に来て本当の意味で最初に気になったのは、「匂い」でした。飛行機から降りてすぐ独特な匂いに気づきました。悪い匂いではなく、どこか懐かしげのある匂いでした。というのは、私は日本の小学校に通っていたので、きっと体がこの匂いを覚えていたんだと思いました。日本の匂いです。
しかし、それは儚く、一日くらいすると、鼻が慣れて、気にならなくなりました。それは、往復の飛行機代を支払い、一度海外に出ない限り、味わうことができない匂いなのでした。実は今回のエッセイは匂いとは関係はなくて、音についてです。
空港から出て、ホテルに泊まりました。日本で過ごした小学時代の日課だったテレビ鑑賞を約6年ぶりに始めようとして、着けたチャンネルが、たまたまバラエティー番組でした。そこで、司会者の人が、何かおかしな事を言ったと思ったら、お客さんたちが同時に「えーーー?」といいました。これに私は非常に違和感を覚えました。でも確かに6年前もこのようだったと確信するのでした。
それもそのはずで、中国では驚いたときに「えーーー?」とはいいません。衝動的に不可抗力な「あっ」などはありますが、比較的理性を保ちつつの驚きは「そんなー」などの言語を使うのです。そのような長い言葉をテレビで、多人数に同時に言わせれないので、必然的に中国のテレビでは、お客さんによる、驚きの表現がないのです。約6年間感じなかった、日本の驚きの表現に私は驚いたのでした。
そのような、日本語の擬音語は、たとえ幼稚園児でもきっと使いこなせるほどシンプルで、かつ直接的であるので、気持ちの表現や、音の表現が比較的親しみやすく、覚えやすいものです。自然音の表現に至っては、完全な音の真似ではなく、五十音で表せているので、個人差が出ることはあまりなくて、相手に伝わりやすくもあります。逆に中国語では気持ちなどを適切に表すには成語を使うのが通です。成語は故事、漢文などから作られるもので、少ない文字に多大な情報量を含んでいる言葉のことです。中国には4千年分の故事があるので、あらゆる事象に対応する成語が存在して、使いこなすと、非常に深い会話となります。しかしながら、使いこなすためにはその故事を知らないといけないので、幼稚園児と、小学校を日本で過ごしたような人などには厳しいところがあります。なので、その小学校を日本で過ごしたような人は、会話についていけないときがたびたびあって、使いこなす人を非常にうらやましく思いました。心をうまく表現できないこと以上に悔しいものはありません。その夜に出会った日本の擬音語は中国語の成語と比べて意味が浅いですが、私には天使のようでした。
といっても、そんな天使も悪い所はあります。汎用性が高すぎて乱用が効きすぎる点が良い例です。
セミナーで英語の論文を読んだりするのですが、日本の学生は、みんな擬音語で発音するのです。ちゃんと発音できる控えめな先生も恥ずかしいのか、日本語で発音し、若干控えめ+チャレンジ精神な私は少し擬音語的な中国語訛り英語をしゃべる事になるのですが、うまい具合に、誰にもわからない発音になってしまうのです。残念ながら。
英語は英語圏の人たちと交流するために学ぶべきもので、その本来の発音に沿って勉強するほうが、有意義であるに違いないのに、擬音語の便利性で、それを怠っているのがとても残念です。
そういうわけで、「ジリジリ」と夏の日差しが照りつけ、セミとホトトギスの鳴き声が完全に「ミーンミーン」、「ホーホケキョ」と日本の音に聞こえてくるようになってきた、来日4年目を満喫する私でした。
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