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そんちゃん、今から飲み行く?
ミャンマー出身/2007年9月来日
国際大学 国際関係学研究科公共経営・政策分析プログラム 2年在学中
趣味:バトミントン、カラオケ、言語
将来の夢:政策立案者
研究テーマ:Public Infrastructure and Agricultural Productivity: A Case Study of Myanmar
 
 

祖国ミャンマーは、60 年近く軍事政府により支配され長い悪夢を見ました。待ち遠しかった望みの光が2008年の国民憲法により生み出され、2010 年の第一国民選挙にて新しい政府が構成されました。その新しい政府は、テインセイン大統領とアウンセンスキィーをはじめ元軍事政府のメンバーや選挙により選ばれた一般国民などで構成されました。その歴史的な瞬間から3 年間経った今の祖国ミャンマーは、国際協力により民主化を順調よく進んでいますが、一方“民主主義”の定義を“自分がやりたいことを自由にできる”と非常に浅い知識で理解し無責任な行動が頻繁に見られるようになりました。日本という民主社会に留学している私にとっては、“民主主義”が与える“自由”を体験でき、その“自由”とは一体どんなことであるかを伝えたいです。

自由とは何ですか。私は、自由の本質を考えてみたら責任という言葉が浮かんできたのです。私たちは通常、すべての責任から自由になりたいと言ったりしますが、その責任ということが自由の最も重要な鍵であることに気づかないこともあります。「自由には大きな責任が伴う」ということわざがあります。この言葉は、若者たちの世代にも聞かれ、親の世代に言われています。残念なことに私たちは自分が行う特定の物事の責任を負わないように見えます。人々は無責任であり、自由を間違った形で利用することもあります。人間として私たちは神によって自由意志を与えられ、その自由に基づいて選択を行う場合、自分の周りの人々に、そして社会自体に与える影響についての責任を取らなければなりません。

私にとって「自由に生きる」ということは、他人に迷惑をかけず楽しく生きていくことだと思います。人々は、自由、平等と正義の恩恵を受けられるはずです。しかしながら、その絶対的な自由は、時には非常に危険であり、社会の基本的原則を破壊する恐れがあります。なぜなら、多くの人は、いつでも自由に、好きなことを行うことを意味し、自分の選択そして生き方が他人に迷惑かけてしまったり傷つけてしまったりするからです。

例えば、自分が感じるものを表現するための特権が与えられますが、私たちが利用する言葉は思いやり、検討などがなしでわがままに主張することです。私たちは、自由に意見を述べることを許可されているということだけを掴み、その意見についての責任を取ることという事実を無視したり、知らないふりをしたりします。このように責任感のない自由の結果はなんでしょうか。近いうちに与えられた自由を失ってしまうかもしれません。自由は責任を意味する。私たちは、自分が望むように人生を生きることを選ぶかもしれませんが、それに伴う責任を取る必要があります。

自由は責任を意味する。私たちは、自分が望むように人生を生きることを選ぶかもしれませんが、それに伴う責任を取る必要があります。フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が「The cost of freedom is alwayshigh」とおっしゃった通りに、自由には価値があり、それのために何かをあきらめる必要があります。私たちは、自分がやりたいことが自由ですが、その行動の結果に直面して、よいことでもわるいことでも責任をとることに覚悟し準備をしなければならないのではないでしょうか。

 
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