最近、『渇き。』という映画が出ている。私は映画好きで、しかも犯罪や非行に興味を持っている人間だから、「愛する娘が化け物でした」という紹介を見た瞬間、もう待ちきれずに見に行った。やはり、やくざ・買春・レイプ・殺人・ドメスティックバイオレンス・薬物等の要素が入った映画であった。今まで『Trust』(性暴力を受けた少女の話)、『The Lovely Bones』(殺された少女の話)、『Habbit Hole』(息子が交通事故で死んだ母親の話)など、よくヘビーなものを見てきたつもりだが、どちらも被害者やその家族、周囲の環境を描いており、絶望的であってもどこかに希望があり、まさに熊谷晋一郎さんが言うように「自立は依存先を増やすこと、希望は絶望を分かち合うこと」のようなことが描かれている映画であって、考えさせられることがたくさんあったが、『渇き。』はある意味、現実を描いているかもしれないが、とにかく重かった。身も心も。
偶々アルバイト先(百貨店の通訳)で、『渇き。』を見たいという方が何人かいて、私は、『渇き。』は重いから、そういうストーリを見たければ、『Trust』と『The Lovely Bones』とかは面白いよと伝えたが、いやちょっとそういうのは、というふうに言われた。私はびっくりした。というのは、研究室でこういった内容の映画を紹介するとき、みな興味津々の様子だったのだ。自分が関心を持っているテーマが、(研究室以外の)世の中ではあまり受け入れられていないということを実感できた一つの出来事であった。そして、研究室とバイト先とのギャップは、自分の研究と生きる現実社会とのギャップであり、それはまたまさに非行や犯罪を起こした人々の世界と普通に暮らしている人々の世界とのギャップではないかと思った。
一般社会では、非行少年や犯罪者たちがまるで別の世界で生活しているかのように、我々はあいつらとは別だというかのように、「こっち」と「あっち」を壁で切断している。ただ、結局「こっち」も「あっち」も閉ざされた世界に暮らすことになるのではないかと思った。
私はこれまで何回もAA(アルコール依存症者の自助グループ)や児童相談所、児童自立支援施設に行ったり、刑務所を出所した方とも繋がっているが、当事者の方々と接触する中でよく思ったことがある。
それは、みな何かしら被害経験を抱えている。よくあるのは、家庭の不遇や、いじめ経験、性被害などである。もちろん、だからと言って、他人を傷つけて当然だとかではないが、彼らが、最初に失ったものは、いわゆる基本的信頼感――人間は信じられるものであり、世界は安全であるという感覚である。人生早期、特に幼少期におけるさまざまな暴力への暴露体験により、彼らは、つらい記憶や感情を意識から乖離することで自分の痛みを感じないようにしてきた。そのためか「自分は痛くなかったから、他人も痛くない」とでもいうかのように他人の痛みも感じられなくなった。自分自身を別の世界に閉じ込め、本当の自分から離れることでもあろう。これは、被害から加害へのプロセスでもあると松本俊彦先生がおっしゃったのを覚えている。
同時に、社会も彼らのことに対して、封印を掛けていると思う。私自身もそうかもしれない。『渇き。』に描かれている世界についてそんな残酷なものはあるはずがないと思っていた。しかし、そのストーリーを府の性犯罪者治療教育に携わっている先輩に話すと、よくありそうな話だなとおっしゃった。口コミを読むと、共感する人も少ないがいた。自分は何も知らなかっただけだったのだ。
正直、私は結論を出すのが苦手な人間である。「閉ざされた世界」というタイトルを付けてしまったが、このエッセーを読む人たちに、「私たちの世界に彼らを迎え入れよう」とか、犯罪者や非行少年、“アル中”たちは元々被害者だから彼らのことをもっと理解してほしいとか、まったく言いたくない。言える立場でも、言うべき立場でもない。ただ、少し知ってほしいのだ。
最後に、とにかく、私は自分の研究と今所属している研究室が、とても好きなのだ。 |