多言語を使用する話し手は、その国に住んでいた経験があるないに関わらず、その言語の文化的・社会的背景の影響を受ける。例えば、日本の旅館で女将さんが玄関でお辞儀をして出迎えてくれる時に、たとえ違う文化で育った外国人であったとしても、お辞儀をして「ありがとう」と言う人はいるだろう。また、個人の感覚的なものに過ぎないが、両親がそれぞれスペイン人とイギリス人で、ジブラルタルで生まれ育った人の記事によると、バイリンガルとして育ったが、その時の感情によって、表現したい言語が異なるという。さらに、バイリンガルであったとしても、それぞれの文化に順応している人の方が、感情によって話す言語が変わることが多いという傾向にあることがわかった。その言語が使われる社会の慣習に合わせることや、自身の過去の経験、使用するタイミングによって“自分ではないような感覚”を覚えることはないだろうか。この感覚こそが、使用する言語によって性格が変わると認識できるものである。言語と文化のつながりは複雑であり、言語と人格に何らかの影響を及ぼすと考えられている。
言語と一口に言っても、言語に含まれる語順、文法、発声、発音、敬語などは、各言語によって異なる。例えば、日本人でも日本語を話す時はおとなしく感じるが、英語を話すと言いたいことが言えるようになったという例では、日本とアメリカの社会的ヒエラルキーは異なっており、敬語の種類にも大きな差があることが挙げられる。
重要な点として指摘できるのは、話す言語の言語能力であろう。流暢に話せる言語は、会話に苦なく自信を持って話すことができるが、まだ発展途上の言語能力では、言いたいことが上手く伝えられず自信がなくなってしまうことや、相手がその言語が母国語である場合、“見えない上下関係”の構造が出来上がっているとも指摘できる。しかし、使用言語とその背景にある文化から影響を受けた話し手は、性格の変化と関連があるとしているが、必ずしも言語能力が比例しているとは限らないとしている。
個人の人格形成に欠かせない言語によって、性格が形成される場合と、言語によって自身の性格が変えられている場合の両方があるのではないだろうか。
自身の経験では、話す言語によって私の性格が少し変わったことに気づくことがしばしばある。私は現在、ドイツ語、ロシア語、英語と日本語の4つの言語を流暢に話すことができる。それぞれの言語を話す際の自分の性格は、ドイツ語を話す時に一番はっきり自分の意見を言うことができ、英語を話すときはもっとも皮肉だ。日本語を話すときは最も丁寧で、ロシア語を話すときは最も失礼である。
これらの言語を学んだ方法と使える環境を考えれば、この理由は明らかである。私の母国語はドイツ語である。ドイツの文化は自分の意見をはっきりと述べ、議論と討論においては意見をはっきりいうことで知られている。日本語はその傾向はあまり見られない。誰かに話しかける前に社会的ヒエラルキーについて考えないといけない。話し相手によっては、自分の話し方を変える必要がある。英語を定義するのは難しいが、英語は1カ国だけ、あるいは1つの大陸だけの言語ではない。しかし、語彙の量が多いため、他の言語より、特に日本語より皮肉なことが言える。一方で、ロシア語は私が正式に学んだことのない唯一の言語である。ロシア語は、家族や友人と話すだけで、礼儀正しくする方法を学ぶ必要はまったくなかった。子供たちは先生など高い地位の人々と話すことによって言葉遣いを学ぶが、私にはその必要がなかった。ロシアの文化は一般的に最も丁寧な文化であるにも関わらず、言語を学んだ環境から、その言語形態は身につけていない。
多くの人がこのようなことについて考えていないため、私も自分自身これに気づかなかった。これに気がついたのは、私と同じ言語を話す友達であった。たとえば、英語またはドイツ語が流暢な日本の友達と、日本語を話すロシア人の友人である。彼らは、私の話し方が変わったこと、そして私の性格も変わったようだと指摘した。問題は、私の性格が変わったのか、それとも私の性格を表現する選択肢が変わったのかということである。
私は後者に賛成である。私の性格がそれほど変わったとは思わないが、なぜそれが他の人にそのように見えるのかの理由は推測することができる。私が日本語を話すとき、ドイツ語のはっきりした話し方をすると日本の文化の中でうまくいかないだろう。私の意見をはっきりいう時は、相手に嫌な思いをさせないように心がけている。もし私が日本語の礼儀正しさを英語で伝えようとするならば、人々は私を変な目で見るだろう。自身の経験をもとにすると、人の性格は自然に変わることはないが、人々が話している言語の文化に適合しようとする際に、自分の性格を変えていると考える。
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