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奨学生エッセイ
2019年度
 
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「方言」という誤解
ドイツ出身/2008年10月来日
早稲田大学 文学部 文学科 卒業
趣味:漢字学習、外国語学習、読書
将来の夢:国際社会の発展に貢献すること
現在の職業:宣伝業務(欧州、インド、豪州における媒体購買)
 
 

「それって、方言?」
「標準語じゃないよ、それ」

私は、都内の大学で日本語と日本文学を専攻して以来、何度もそのような会話の発言を耳にしています。会社員として仕事をしている今でも、以前よりは少ないものの、たまには聞くことがあります。いうまでもなく、「標準語」とは「日本語の標準語」をさしており、話し相手が「規範」から逸脱した言葉遣いをしていることを指摘する内容の発言です。時には友人との会話で発せられ、時には飲食店の隣席などから聞こえてくる、この種の言葉ですが、聞くたびに静かに呆れる私がいます。そもそも現代日本語には厳密な意味での「標準語」はなく、「共通語」しかありませんが、呆れる主な理由はそれではありません。むしろ、学校やマスメディアの採用する共通語とそれでない言葉を区別し、格付けを行い、優劣を決めつけようとする考え方に呆れるのです。人によっては「方言」に好意を示す者もいますが、そのような考えの裏にも結局、共通語を「ノーマル」と見做し、それと異なる言葉に「エキゾチック」なものとして「憬れ」を感じる、という傾向が多い印象があります(幸い、例外もありますが)。つまり、いずれの場合でも「方言」が「変わり者」として扱われるということなのです。

しかし、言語学の視点で考えた場合、上記のような発想はまったくおかしな話です。少数言語の研究団体であるSIL International の年刊出版物「Ethnologue: Languages of the World」(2019)によれば、世界では現在7,111の言語が使用されているそうですが、正確な総数の把握はむろん不可能です。理由は複数ありますが、大きな原因のひとつは「言語」と「方言」の区別の難しさです。その分類の恣意性をおもしろおかしく示すものとして、言語学界ではやや有名な「A language is a dialect with an army and navy」という名言(作者に関しては諸説あり)がありますが、実際、「言語」と「方言」の境目の明確な学術的定義は存在しません。ひとつの基準として「相互理解可能性」という概念があり、言葉が通じれば「方言」、通じなければ「言語」という考え方もあるとはいえ、二言語のうち片方のみが互いに通じたり、理解度が非対称的であったりするなど、基点次第で結論が変わるケースもあります。そのため、現代言語学においては「方言」も原則、言語と見做し、他の言語と「相互理解可能性」があれば両方を「互いの方言でもある」ものとして位置づけるというアプローチが今や主流となっています。

その言語学的なアプローチを日本語にも当てはめてみると、日本語の「方言」に対する考え方も変わるのではないでしょうか。たとえば、「共通語が『スタンダード』で関西弁が『方言』」という分類ではなく、「共通語も関西弁も『互いの方言』」という考え方になります。そもそも、関西弁が共通語から派生したわけではなく、関西弁と共通語が両方ともより古い共通の言語からそれぞれ派生していることを考慮すれば、何の不思議も違和感もないはずです。では、共通語の意義はどのように捉えればよいのでしょうか。尤も、社会として共通語を持つことは決して悪いことではなく、また、それが円滑なコミュニケーションのために必要不可欠なケースも実に多いでしょう。ただ、文字通りの「共通語」の本来の役割は、そこまでなのではないでしょうか。純粋なコミュニケーション支援ツールであるはずの共通語をむやみに「標準」と位置づけようとすることは、言葉の優劣を決めつけ、結果として言語文化を乏しくしてしまう行為に思えてなりません。

 
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