SDGs(Sustainable Development Goals)が目指す世界では、達成する最も長い道が「誰一人取り残さない」グローバル社会であると言えよう。目的として、持続可能な開発のための2030アジェンダの「行動計画」においては「包括性」に焦点が当てられていた。「包括性」とは、差別・周辺化されている人々を社会の中で包括できるようにその環境、状態や多様性などを理解し、取り組むことである。
本エッセイで強調したいのが教育の重要な役割である。すなわち、以上に述べたように、包括性に不可欠な理解の上で、現代社会における教育(本エッセイでは、社会を導いて改善するという広範囲的な定義でもあるのだが、とりわけ学校教育について叙述する)の果たす役割はどのようなことであろうか。
日本の教育制度にはその「包括性」が欠かせないという理解を促進する特色があるのを来日してから自分が気付いたのである。特色というと、必ずしも他の国と特に異なっているわけでもない。しかし、日本の教育制度には複数な点には出身国で見たことのないイニシアティブが進められている。まず、留学生や多様な背景を持つ一般生の存在を生かすことにより、教育の質を向上させる。なぜなら、異なる文化や価値観を持つ生徒たちが学び合うことで、相互理解や国際感覚を培う機会が生まれるからである。そして、教育制度に携わっている方々は日本にとどまらず、グローバル社会問題への意識を高めることにも尽力をしてくださるのだろう。これにより、将来のリーダーや市民が持続可能な社会を築くための能力を身につけることが期待されていると考えられる。さらに、グローバリゼーションの進展に伴い、情報の交換が加速している。この状況で発生する理解不足の問題に備え、日本の教育制度は情報の読解能力を磨くことを重視しており、その情報を適切に理解し、評価する力は、現代社会での個々人の包括に不可欠なスキルであるとされている。
さて、いかなる理由で教育制度にはそのような変化があったのだろうか。一方、国際社会における日本の位置はもとより、SDGsを出発点として日本は、当時までよりも持続的な開発の社会の牽引車という役割を演じたかったことも一つの理由であると考えている。それに加えて、日本社会は内在する多様性も、グローバリゼーションによる個人化に伴って、現れてきたというのは過言ではない。「単一民族国家」や「中流意識」など社会を理想的に見解する発想から乖離していた人々は個性を磨いて生かすことで、個々人の多様なしきたりや価値観などが社会に意識される原点となった。「誰一人取り残さない」日本の社会は「日本人」という単位から「包括性」を考えているのであれば、「日本人」という自己意識をする人々を一人ひとり考える必要がある。その人は琉球出身であれ、韓国人やメキシコ出身の親を持つミックスルーツの子供であれ、身体障害者であれ、同様に扱っているべきである。そんな価値観はグローバルで、教育を通じて普及されるべきであると考える。そうすれば、社会問題などの社会が立ち向かわないといけないことに対して多様性は解決の糸口を見つける多角的な手掛かりになるかもしれない。
SDGsが目指す「誰一人取り残さない」社会を構成する他人のことを理解し、生かす私たちから始まるのである。「理解」した「多様性」を「包括」すると「公益」となると考えている。 |