ホーム サイトマップ
ホーム 財団案内 財団ニュース 助成案内 よくあるご質問 お問合せ
助成案内
助成事業について
助成実績
助成募集要項
奨学生エッセイ
2015年度
2014年度
2013年度
2012年度
2011年度
2010年度
2009年度
2008年度
2007年度
2006年度
 
奨学生エッセイ
 
 
 
日本を伝える2冊の写真集
中国出身/2008年9月来日
名古屋大学 文学部人文学科 4年在学中
趣味:音楽、読書、映画鑑賞、旅行
将来の夢:研究者・教育者
 
 

「なぜ日本に来たの?」「日本のどこが好きなの?」日本に来て、よく聞かれる質問のトップ5に入る質問である。何か理由がなければならないのだろうか。

実はその気持ちはよくわかる。もし、私が母国にいて、身近に外国人の方がいるなら、私もその理由が知りたくて、聞きたくてしようがないかもしれない。なぜこの国なの?この国のどこが好きなの?

日本が好きになって、日本で生活したいと思ったのは、日本の桜が好きかもしれない、日本語そのもの、温泉、アニメや漫画、お寿司が好きかもしれない。様々なことが、私にとって理由になる。真面目ではないと思われるかもしれないが、本気である。

もちろん、最初に「日本に行きたい」と思うようになったのは、何かのきっかけがあったのに違いないだろう。ところが、いつの間にか、日本に行きたいというのが夢になっていて、その気持ちだけが強くなってきて、それ以外は全部後でつけた理由になると私は考えた。「○○だから、日本に行きたい」ではなく、「日本に行きたいから」という気持ちである。

この間、学校の先生に、「趙さんは、いつも勢いで何かを決める、何かをやるんだね」と言われたことがある。考えてみると、昔からそうだったことに気が付いた。別に悪くもないと思っていた。少なくとも、あまり深く、複雑に考え、迷ってしまうことはないだろう。

しかし、後を考えず、考慮が不完全で甘くなり、衝動的になりがちなところもある。けれど、それでも、一目で、認めたことを信じようとしたい。それでも、勢いで動く自分を、信じようとしたい。繰り返して考えるのも、決めるのが一瞬だったりする。心臓がドキッとする理由、後悔しない理由が一つさえあれば、十分ではないか。残りは、自分を信じること。

日本に来るのを決めたのも、そうだったかもしれない。純粋に、日本に来たかったかもしれない。ただの、何かが好きだ、何かをやりたい、どこかに行きたいという純粋さが、一番美しいものと思う。

しかし、今の社会では、そのような純粋さが少なくなっている。何かのために、何かをやるのが普通である。別に悪いとは、思っていないが、ただその理由、目的がなくてもいいのではと思うし、それらがすべてではないと思う。

今年の春、ある週末に、実験データを整理するために、学校に行ったとき、満開の桜を見て、涙を流した。週末、一人で学校に行って、満開の桜を見て涙を流す人はなかなかいないと思うが、私もなかなかこういうことはしない。

日本に来てもうすぐ六年目に入るが、お花見も、何回も行ったことがある。しかし、それ以外の場合、大体、自転車に乗って、桜の木の下を通り過ぎるか、急いで通り抜けるか。こういうふうに、桜の木の下に立ち止って、顔をあげて、静かに桜のお花を見るのも、満開の桜を通して空を見るのも、なかなかなかった。その日、なぜかわからないが、少し悲しくなっていた。

最初に日本に来たとき、この目で、雲のように広がる満開の桜が見れるのがすごく嬉しかった。その気持ちは、そのとき、思い出された。いつの間にか、その気持ちを、忘れていた。忙しくなって、日本での生活に必死になっていて、立ち止って、目を向ける暇がなくなっていた。本当のことをいうと、こころの余裕がなくなっていた。他のことに目が取られてしまった。「自分にとって本当に大切な物がわかっていない人は忙しくなる」。気づいていないうちに、意味のない忙しさに取られてしまったかもしれない。

最初の、日本の桜を見たい、桜が見れて嬉しくてとても満足だという純粋な気持ちがなくなっていた。

「掃けば、散り。払えば、また、塵つもる。人の心も庭の落葉も」。常に清浄心であるように、心につもった埃をよくよく掃除しないと、自分のこころ、本来の何かをやりたいという純粋さが見えなくなってしまう。

心を掃除することで、自分のこころと向き合おう。

 
| 次のエッセイ
 
ページのトップへ
   
ご利用条件 個人情報保護について Copyright (c) 2003- Sojitz Foundation. All rights reserved.