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奨学生エッセイ
 
 
 
多様性についての些細な考察
ベルギー出身/2016年4月来日
一橋大学大学院 社会学研究科 修士2年在学中
趣味:体を動かすこと、近代文学
将来の夢:学問を極めること
研究テーマ:言語的差別化の原理、社会哲学
 

近年、広義の多様性は様々な場面で話題になっている。学校と職場を始め、個々人の趣味嗜好や自然環境保全の分野に至るまでダイバーシティーの重要性が唱えられている。無論、各人が自分らしく生き、万人の権利が保護される社会を再考する必要はなかろう。しかし、多様性を推進する取り組みが活発化した一方で、社会の多様化を実感できる側面が益々減っているように感じられる。

身近な例として、写真を挙げよう。この数十年で撮影の技術が著しい発展を遂げたことは指摘するまでもない。特殊な機材を必要とせず、スマートフォンだけで質の高い写真や動画を撮ることができる。編集もまた指一本の操作で、その場で可能になった。ぼくのような素人にとっても設定がわかりやすく、自動調整機能のおかげで失敗することは滅多にない。写真を介した表現には無限の可能性が芽生えたと言える。ところが、この無限の可能性にも関わらず、我々は「同じように」友だち、家族、食事、買い物、風景の写真を撮り、「同じように」対面やソーシャル・メディアでそれらを見せあったりするのは何故だろうか。

文章に関しても同様のことが言える。ブログやSNS、電子書籍の普及により執筆行為とその公開が身近なものとなり、テーマも間違いなく多様化したと言える。いくら特殊な分野であっても、ネット上で検索をかけるなり本屋に行くなりすれば、目当ての情報が必ず手に入るだろう。一方で自動修正や翻訳ツールが凄まじく進展し、誤字はともかく文法的な誤用まで訂正してくれるようになった。日々、多彩なテーマで無数の文章が書かれていることは間違いないが、おおよそのフォーマットは常に固定されており、そこから逸脱することは極めて困難に思われる。実に、ビジネスメールらしい文章、旅行記らしい文章、教科書らしい文書というカタの存在は否定できないだろう。上記の例の共通点は、皆が「同じ」被写体の写真を撮っている訳ではなく、「同じように」写真を撮り、シェアしている。または皆が「同じ」文章を書いている訳ではなく、「同じように」文章を書き、投稿したり送りあったりしている、というところにある。それは芸術や音楽の領域においても、クラシックとモダンの間に絶えず揺れている感覚に似ていよう。冒頭の疑問に戻れば、しばしば話題にされる多様性は実は一種の同一性なしに存在し得ないと考えることができる。

一般的に、我々の嗜好が絶えなく細分化され続けていることは確かである。しかし、多様性を主張する為の手段が技術発展のおかげで増えたものの、多様性自体が単一化したとも考えられる。特定分野の活動への参加者が増え、アクセス権はもはや特権でなくなった挙句、内容における差異化が一層難しくなった。この問題意識をコンテンツの文脈に引き戻せば、ダイバーシティーは競争の激化と表裏一体関係にあり、流行り廃りと多様化は混同されやすいと指摘できよう。無論、この類の議論は易しい二項対立で片付けられる程の単純な話ではない。実際に、社会的な多様性の実現は20年以上も前から取り上げられているにも関わらず、明確な突破口を提示できずにいるのが現状である。しかしながら、単純とは言え、解決法は恐らく「間」にあると考えられる。「真の多様性」を追求するよりも、中間的な運動と、絶えざる変遷に注目するようなアプローチが適切に思える。日々あらゆる決断を迫られる私たちにとって、曖昧さや中間を彷徨うことは決して安易ではないが、多様な社会を実現させる上では常に変わり続ける「関係性」に注目する必要があるのかもしれない。こうして初めて、同一性を侵食しない多様性、多様性を妨害しない同一性に近づけられるのではないかと、考えたりする。

 
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